武蔵屋さんの肥後の駒下駄

 

熊本の工芸品のひとつに「肥後の駒下駄」(ひごのこまげた)があります。

江戸時代、細川藩の武士たちが好んで履いていたと言われていますが、今では呉服町の「武蔵屋」さんで手作りされているだけになりました。

1枚の板を切り出して下駄の形にする「駒下駄」は、どちらかというと安くて大量に作られるもので、高級品ではありません。しかも軽い桐ではなく、重いけど安くて丈夫な杉を使用。熊本なので小国杉を使っています。

また、鼻緒もおしゃれで高級というよりは、シンプルでこれまた丈夫な小倉木綿を使用。まさに実用性を重視した下駄で、普段履き・庭下駄などとして履かれていたようです。

「肥後の駒下駄」という講談があり、実話を元にしたかどうかは定かではなく、説もいろいろありますが、刻苦勉励のあげく出世したという美談です。人形浄瑠璃や映画にもなったとか。

 

主なあらすじはこんな感じ。

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浪人・向井善九郎は駒平と名乗り、肥後細川藩の剣道指南役・八坂(矢坂?)源次兵衛の秘術を盗むべく八坂邸に屋敷奉公をしたが、怪しまれ追い出される。

今度はその隣りの松山秀之進に奉公し、その息子・秀太郎の剣術・馬術指南役となる。馬の稽古中、八坂邸から飛び出していた木の枝が、秀太郎のじゃまになったので駒平が切り落としたところ、源次兵衛に咎められ痛い目に遭う。

これに怒った駒平は、向井善九郎と正体をさらし、源次兵衛に決闘を挑むが、細川家の鉄砲組頭・中川継之助が「身の程知らずが」と、下駄で眉間をカポン! 「悔しければ相当身分の武士になって来い」とさとされた善九郎、血染めになった下駄を肌身離さず、その悔しい思いを忘れることなく、京都の剣術の達人・竹内加賀之助のもとで修練を積む。

一方、肥後では八坂源次兵衛が松山秀之進を殺害。父の仇討ちに燃える秀太郎の助太刀をすべく、善九郎は肥後へ舞い戻り合流。2人は敵・源次兵衛の行方を探しまわり、ついに天和2年(1682)9月13日、伏見桃山で仇討ちを成し遂げる。

善九郎はのち細川家に召し抱えられ、家老職に就いたという。

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このことから、肥後の駒下駄は出世のお守り、シンボルと言われています。

また、昭和初期、戦前までは、第五高等学校(現在の熊本大学)の学生が好んで履いていたようで(やはり安くて丈夫だったからか)、腰に手ぬぐいぶらさげて、カラコロ鳴らして闊歩するバンカラの象徴でもあったようです。

さらに、「武蔵屋」さんはこの「肥後の駒下駄」を、昭和52年(1977)11月3日、明治天皇に献上。明治神宮に奉納されています。

 

そんな「肥後の駒下駄」、着物はもちろん、カジュアルな格好にも合うとのことでしたので、季節もいいし、今夏は率先して履いていこうと思います。

 

●武蔵屋(むさしや)
熊本市中央区呉服町1-1
Tel.096-352-6497
営業時間/9:00~18:30
日曜・祝日は休み 

肥後の駒下駄 2,000円(税抜)

 

 

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