松崎吉次郎さんについて~NHK「歴史秘話ヒストリア」放送をうけて

 

6月3日(金)に放送された、NHKの歴史バラエティ番組「歴史秘話ヒストリア」は、熊本城の特集でした。熊本地震で損壊した熊本城はその400年の歴史上、何度か同じような目に遭い、その度に市民たちが再建を支えてきたという内容でした。

実際、熊本城はいつも目の前にあるシンボルであり、熊本城が無くなるなんて考えたこともありません。今回の被害からの復興は20年かかると言われていますが、どれだけかかってもやはり市民が復興の原動力にならなくてはいけませんね。

さて、番組内で登場した松崎吉次郎さんは、ここ五福出身です。五福小学校が100周年を迎えた昭和50年(1975)に発行された記念誌「五福百年」に、彼について書かれた項目がありますので転載します。

 

===以下転載===

松崎吉次郎【まつざき・きちじろう】

松崎吉次郎さんは明治21年(1888)10月、古桶屋町に生まれた。父祖がこの地に住みついてから三代目である。家業は切材木商。

明治32年(1899)、五福校を卒業した松崎さんは家業に従事するかたわら、いつの頃からか明十橋の定期場(米穀取引所)に出入りしはじめて、米相場に手を出した。23歳で21歳のユイさんと結婚して1年半、父の吉兵衛さんが亡くなってからは定期場通いが多くなり、とうとう商売はやめて相場師専業になった。株の方は少しはやっていたが、初めは米相場が主で、株相場は従であった。

第二次大戦の頃から全国の米穀取引所は閉鎖され今日も再開されていない。株式取引は昭和20年(1945)8月10日まで開かれていたが、終戦間際に閉鎖された。戦後数年、米・株両方の相場のできない頃の松崎さんは徒々の毎日であったろう。

昭和22年(1947)7月7日、政府の証券処理調整協議会は手持ちの株を一般に放出しはじめた。松崎さんは福岡の証券会社まで始終出向いて入札した。再び株の売買のできる時期が廻ってきた。昭和24年(1949)5月12日、株式取引所が再開されてからの松崎さんは水を得た魚のように以前にも増して相場に打ち込んだ。

若い頃から「熊本城を建ててやる」とよく家で口にしていたという。妻のユイさんは「そんな馬鹿なことをいうと人に気違い扱いされますよ」とたしなめていた。しかし親しい友人の新町の故坂本又太郎さんにも「自分が熊本城を建てる」とたびたび話していたという。

昭和35年(1960)の国体を目途に、城再建の計画を昭和33年(1958)秋、市が発表するや、松崎さんは例の詰襟下駄履きの格好でノコノコ出かけて坂口市長を訪い、「私が5,000万円出しましょう」と申し出た。それから松崎さんは工事の進み具合で市から電話のあるたびに500万円ずつ10回に分けて届けに行った。自動車の迎えは断って「俺は電車が一番いい」といって市電で出かけた。

城の復元完成間近の頃、筆者に対して松崎さんは「俺は去年、坂口市長に、もう1年待ってくれ。1年経てば儲かることは分かっているから総費用1億5,000万を一人で出すからと頼んだが、市長はそれでは国体に間に合わない、あとは市で出すからあるだけくれ、というので5,000万円出すことにした。去年自分が来年のダウ(株のダウ式平均価)は1,000円になるといったら人が笑ったが、見なさい、去年の半ば頃500円前後のダウが今年は1,100円を超えている。一人で建てたかった」と残念そうに語った。

寄附を申し出てから自分の財産を整理してみたら、株で時価6,700万円あった。その株を順次処分して5,000万円を確保しておいた。市に最後の500万円を届けた直後に株が暴落した。さすがの松崎さんも青くなった。処分の時期を一歩誤れば約束が果たせなかったからである。城の竣工を待ちながら「もう金も無いし大相場は張れんが、年もとったし、ここらでやめろという仏さんの教えかもしれん」といって笑った。それでも未だ時々は月数十万株も動かしていた。

松崎さんの朝食は6時、昼食は10時、夕食は実に午後2時であった。それから3時の大引けのラジオ相場を聞くと寝てしまう。夜になって眼が醒めるとテレビを見たり新聞を読んだりして眠くなったらまた床に就いて朝の4時に起きる。当時NHKの大河ドラマ、長谷川一夫の「忠臣蔵」を見ていた松崎さんは「頭が痛い」といって床に就いた。その晩から高熱を出して2日後に死んだ。昭和39年(1964)9月8日、数えて77歳の大相場師の人生が終わった。墓は立田山小峯墓地高台の公園内にある。

遺言によって息子の慎吉さんはさらに熊本城の馬具櫓(長塀)を修理改築した。680万円であった。

住み馴れた古桶屋町の家を懇望されて「ニュースカイホテル」に譲って、大江の熊本女子大南側の美しい庭付きの新築の家で未亡人のユイさん(86歳)は語る。

ここは静かなところだが、私はやっぱり騒がしくてもあの電車道がいい。じいさんが生きていればおそらくあそこを動かなかったろう。モッコスだから自分の家1軒だけでも居座ったことだろう。

電車ができた時がそうだった。唐人町から呉服町への曲がり角のあの遠くからうち1軒だけポツンと残っているのが見えた。電車道(レール)がすぐそこまで来ているのにうちだけ引けずにいてあんなに恥ずかしいことはなかった。じいさんは平気だった。

坪井の大工さんだった叔父があまり見苦しいので若い者を連れて来て、引き倒してやるからもう壊せよ、といって壊してくれて、やっと人並になった。

なぜそんなに頑張っていたかについてユイさんは「実はもらった地所代(補償費)を相場に打ち込んで敷かれていた(損していた)ので家を引く金が無かった」と思い出深く笑う。モッコスで平気を装っていた松崎さんも内心では少々気が引けたかもしれんし、また繰り返される相場師の浮沈の一面を知る思いである。

松崎さんにはいろいろの面白い言行もあるが、教えられるところもある。晩年直接聞いたことを2~3記しておく。

「魚は自分で買いに行く。魚屋に任せておいては活きのいい大丈夫なものしか届けない。大丈夫な魚はうまいもんか。少し危ないのがうまい。株だってそうだ。大丈夫な株はうまみがないし、危ない株ほど味がある」

「銀行株なんか持って何になるか。あれは手形ばかり持っていて中はかんぽす(空っぽ)じゃないか。財産なんて何にもない紙ばかりだ」

「灰皿はこの缶詰の空き缶で結構。買えば100円でも出さねばならんだろう」

 

 

 

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