魚屋町にある「三井住友銀行」さんが新市街に移転されるとのこと。毎月利用していただけに、これはショック。銀行自体が遠くなることによる不便さとともに気になるのが、あの歴史ある建物の行く末です。
昭和9年に建てられた、当時としては近代的な神殿風の建物は、銀行ならではの威厳があり、古町が明治大正時代に繁華街だったことの象徴です。
五福小学校が100周年を迎えた時(昭和50年/1975年)に作られた「五福百年」という本から、「三井住友銀行」に関する記事をまとめてみましょう。
「五福百年」によると―――
■ 住友銀行、古町に開業
「住友銀行」は、大正14年(1925)9月3日、魚屋町2丁目角、「市原醤油」の倉庫を買って支店を開きました。市電開通の翌年です。
明治以来、五福校区は九州の経済の中心地として、たくさんの銀行が建てられました。大正時代になると、中央の都市銀行が進出してくるようになり、「住友銀行」もそのひとつ。
ちなみに都市銀行進出の第1号は「第一銀行」で、現在の「PSオランジュリ」(中唐人町)。建物が現存しています。2番目は「安田銀行」で、現在は「食糧会館」が建っています。(米屋町1丁目)
満を持して3番目に開業した「住友銀行」。大阪に本店を持つからか、当時「最初はなかなか金を貸さぬが、一度信用したらとことん面倒を見る」などと噂されたとか。
昭和8年(1933)8月28日、平屋土蔵造りの店舗を取り壊して新築に取りかかり、昭和9年(1934)12月10日、現在の建物が完成します。設計は長谷部・竹腰建築事務所(現在の日建設計)、施工は大倉土木。熊本一の近代建築の偉容を誇ったこのビルは、総工費25万円、うち5万円が金庫に費やされたと聞き、校区の人は目を見張りました。
【参考】当時の米の値段は10kg=3円10銭くらい、散髪=40銭、たばこ「バット」(10本)=7銭
新規の開業にあたって、折悪しくチフスの流行と重なったため、翌年6月に開業披露を行ないました。開業披露では、県市の知名士をずらり招待し、「一日亭」(現ニュースカイホテル)など有名な料理店で3日にわたる披露宴を行なったとのこと。
戦後、経済的機能は東へと移り、五福校区の銀行の数も減少しました。残ったのは「住友銀行」と「肥後銀行 紺屋町支店」。
「住友銀行」の当時の高野支店長はこう語っていました。「50年間も永くお世話になった所ではあり、私はまだこの古町の問屋さんたちの地力を信じております。私の銀行はずうっとここにおらせていただくつもりです」。
■ 埋蔵金騒動!?
「住友銀行」が建てられた場所の元の地主、「市原醤油」の主人によると、銀行の新築工事中、夢枕にお稲荷さんが現われ、
“いま掘っている土地から埋蔵金が出る”
とのお告げがあったので、2階の物干に陣取り、工事が終わるまで毎日毎日見張っていましたが、一文の銭も出てこなかったとのこと。
市原氏は江戸時代からの古い商家で、広い土地を持って酒造業や醤油を手広く商いし、藩に多額の献金をして苗字帯刀を許された家柄で、惣長も務めました。明治に入ると、千葉の銚子の「野田醤油」まで行って、その技術を学び、熊本にこれを伝え、商工会議所会頭までなった人物。
■ 花の四ツ角
この「三井住友銀行」が建つ、米屋町と魚屋町の交差点は明治時代、“花の四ツ角”と呼ばれるほど市内でも有名なスポットでした。
この交差点の南西の角地にあったのが「市原醤油」で、現在の「三井住友銀行」。
南東の角地には「東市原屋」という酒類商。現在はコインパーキングです。「東市原屋」は岡崎家の経営によるもので、手狭になったために万町に移転。現在でも「早川倉庫」として建物が現存しています。
北西の角は友枝家が営む薬種商。「富士銀行」を経て、現在は「西消防署」。
北東は同じく友枝家による両替商。「熊本第一病院」を経て、現在はマンション(フローレンス五福グランドアーク)が建っています。
この四家とも藩公お声がかりの老舗であり、苗字帯刀を許された重い家柄だということで、この四ツ角は肥後のお国自慢のひとつになっていました。
■ 熊谷栄次さん
元住友信託銀行社長。貸付信託制度の生みの親といわれています。
五福小学校の出身で、明治41年(1908)卒業。五福校出身で五福と日本のために粉骨砕身した「五福五人男」のひとり。
五福校の5・6年生で教育熱心な宮原先生に受け持たれ、おおいに感激して勉強したので成績優秀。また、ガキ大将として、よく白川対岸のわんぱくどもともやりあったとか。
熊本中学(現在の熊本高校)では5年間を通して優等生。学校始まって以来の秀才といわれ、無試験で五高(現在の熊本大学)に入り、ここでも特待生で東大法学部に進みました。
大正8年(1919)卒業後、「住友銀行」に入行、以後は同銀行支店を転々。熊本支店にも支店長代理や支店長として通算10年あまりを勤めました。
昭和21年(1946)3月、「住友信託会社」に出向。5月に常務、さらに半年後には専務、翌年1月には社長に就任。昭和26年(1951)には選ばれて信託協会会長となり、前々から協会の懸案であった貸付信託制度をついに実現させました。電力・鉄鋼など日本の基礎産業の発展の陰の力となっています。
余談ですが、「住友銀行」社長で住友グループの総帥格であった岡橋林(おかはし・しげる)さんは、福岡支店在勤中に夫人を亡くされましたが、大正5年(1916)頃、「五福幼稚園」の菊池菊枝先生と再婚しました。
「住友銀行」は五福とたいへんゆかりがあるというエピソードでした。