ここ古町で商いをはじめて2年半あまりが過ぎましたが、この町の作りについてちょっと“おさらい”しとこうと思ってまとめてみました。
熊本の城下町・古町は400年前に加藤清正が作った町で、その当時のシステムや風情が今でも残っている希少なケースです。
いくつか特徴はありますが、今回はそれらの中から3点挙げてみました。
1、町名が昔と変わらない
行政上、昭和中期に町名変更の話があったそうですが、
「今の役人が清正公より偉(え)ろばしあるか、何で町名を変更せなんか」
<訳>今の公務員が加藤清正公より偉いわけでもあるまいし、(清正公が決めた町名を)なぜ変更しなければならないのか
といって住民が反対したとか。おかげで現在も当時のままの町名が使えているわけです。そんなわけで、決して広くはない五福校区には16も町名があります。
- 米屋町(こめやまち)
- 呉服町(ごふくまち)
- 細工町(さいくまち)
- 小沢町(こざわまち)
- 中唐人町(なかとうじんまち)
- 西唐人町(にしとうじんまち)
- 鍛冶屋町(かじやまち)
- 魚屋町(うおやまち)
- 板屋町(いたやまち)
- 万町(よろずまち)
- 古大工町(ふるだいくまち)
- 紺屋阿弥陀寺町(こうやあみだじまち)
- 東阿弥陀寺町(ひがしあみだじまち)
- 西阿弥陀寺町(にしあみだじまち)
- 古桶屋町(ふるおけやまち)
- 川端町(かわばたまち)
※いずれも「~まち」と読みます。町人町は「まち」、武士が住んでいた町は「ちょう」と読むようです。
町名はだいたい、そこに住んでいた商人・職人の職業に由来しています。米屋が多かったので米屋町、魚屋が多かったので魚屋町、など。
ちなみに現在はこの法則は崩れてしまっていて、米屋町にお米屋さんは1軒も無く(呉服町にはある)、呉服町に呉服屋さんは1軒もありません(魚屋町にはある)。
2、碁盤の目状の町割
古町は、東西南北に均等に道が走っていて、上空から見ればまさに碁盤の目のように町が割られています。京都の街並みと同じですね。
その区画には真ん中に必ずお寺が配置されました(一町一寺=いっちょういちじ)。これは、コミュニティの中心的役割であり、戸籍管理上・宗教上の都合が良かったこともあったようですが、何より軍事的・戦略的な側面が強かったようです。
3、町の境界線
そして、地味に特徴的なのが「町の範囲」。
一般的に、町は道路や川などを境に区切られることが多いと思うんですが、(例=下図)
古町では、道をはさんで両サイドが同一の町です。(下図)
裏の家とは住所が異なり、向かいの家と同じ住所、ということになります。
すでにご存知の方にとっては「何を今さら」な記事ですが、これらのことが400年という長い時間を経て当たり前のように受け継がれてきたことに、最近改めて感銘を受けたので記しておきました。